1963年に山岳線向け急行用電車として登場し、以来40年近くの力走を続けてきた165系も、ついにこの2002年3月23日改正で最後の活躍の場所である紀勢本線から撤退し、定期運用から全面撤退することとなった(一応MLえちごとして残ってはいるが、湘南色の165系は引退なのでとりあえず引退ということで)。いつのまにか165系大好き人間となっていた私はいても立ってもいられなくなり、結局最期の定期列車に乗りに逝くこととなった。この文章は、その時の様子をレポート(?)したものである。
2002年3月22日22時30分過ぎ、新大阪駅はかつて無いほどごった返していた。私が知る限りでは、この列車が新大阪駅においてこれほどの大混雑を巻き起こしたのはない。新宮まで夜行として走っていた時代から、この列車は基本的に天王寺からしか混まない列車である。それも、あくまで帰宅列車としての混雑であり、大抵は海南あたりで混雑は解消されるというのが通例であった。ただし、天王寺からは鬼のような混雑の仕方を見せる、というのもまた通例であったのだが。そんなわけだから、もし新大阪で今ホームにいる人間全員が乗り込んだりしたらどうなるのか、想像するだに恐ろしいものがあった。まぁ、全員が乗り込むなんてことは無いにしても、それでもかなりの人間が乗り込むことが予想され、乗車前から少々気が重くなってしまったのもこれはむべなるかな、であろう。
新大阪駅での喧騒
そして22:43頃、いつものように発車3分前に、いつものように彼はやってきた。いっせいにたかれるストロボ、落とされるシャッター。この列車がこれほどの注目を浴びたのは、おそらく最初で最期であろう。私も別れを惜しむようにシャッターを切る。新宮夜行だった時代からそうなのだが、この列車は入線から出発まで時間が無い。これは、品川発着の旧375Mや9375Mとは大きく異なる。よって、ゆっくりと撮影にいそしむ、というわけにもいかず、さっさと撮影を切り上げて車内へと移動する。車内は思ったほど混雑はしておらず、ちょうど座席がすべて埋まるか埋まらないか、といったところ。それでも、普段だと数えるほどしか乗ってない日も珍しくないこの列車としては異例の混雑と言え、金曜日ということもありこの後どういう状況になるのかということを考えたりすると少々不安になってしまったのだが、そんな私を乗せて定刻23:46、ラストランが開始された。
新大阪を出発してしばらくした頃、隣席のサラリーマンの方が話し掛けてきた。よくこの列車を利用していたとのこと。黒江までの利用とのことだったが、色々と話が弾んだ。その人とも話していたのだが、やはり天王寺以遠の混雑の度合いが非常に気がかりであった。そして列車はその問題の天王寺へとすべりこむ。途中駅でもそうだったが、カメラの砲列が待ち構える。そして大量の乗客が流れ込む…はずだったのだが…。
さぁ、いざ天王寺へと列車が滑り込み、ドアが開く。いつもならここで立錐の余地も無いほどの混雑を見せるはずなのだが、今日は何故か人が少ない。隣席のサラリーマン氏も首をひねるほどの空き具合だ。私自身もこれほど空いているこの列車を見たことがない(といっても、過去2回しか利用していないが)。一応座席は埋まったものの、通路を隔てた反対側のボックス席の窓が見える程度の混み具合だ。これには正直驚いた。金曜日ということもあって、殺人的な混雑を予想していた私としてはどこか肩透かしを食らったような気分だった。色々と原因を考えては見たものの、結局よくわからなかった。いまだもって謎である。そんな当惑気味の私とサラリーマン氏、そしていつもの利用客と普段はいない鉄ちゃんたちを乗せ、一路紀伊田辺へと天王寺を発車した。
和歌山までの各停車駅ではほとんど全駅にカメラを携えたファンがいて、さすがは165系の引退だけはある、と感心させられるのもしきり。列車は快調に夜路を飛ばし、和歌山に到着。普段だとここで結構人が引いて、海南過ぎる頃にはガラガラという展開になるのだが、この日は元々乗客が少なかったこともあり、余り状況は変わらない。黒江で隣席のサラリーマン氏も下車され、いよいよ列車は終着紀伊田辺へとラストラン、となる。
私が言うのもなんだが、今回の道程で一番興味深かったのが私と同じ行動をする「阿呆」がどれくらいいるのか、ということであった。無論それは紀伊田辺での駅ネという行為のことである。まさか50も100もいないだろうが、さりとて一桁だったら寂しいなぁなんて考えているうちに列車はまさにその紀伊田辺に到着。定時到着で1:37だ。ホームでうだらうだらとしていると駅員さんがやってきて駅を閉めるからそろそろ出て行ってくれ、と注意される。周りの同輩たちと同様、指示に従い駅舎の方に出て行くと、ざっと数えたところで30名、まぁ、こんなものだろうか。駅員さんもおそらく予測の範囲内だったと見え、特に特別な行動というのは起こさない。ただ、普段はおそらく消灯しているであろう駅舎の電気はつけっ放しであった。
紀伊田辺駅跨線橋より
そうこうしている間に、人数も若干減り20人くらいで落ち着いたのが紀伊田辺の駅舎内。折り返し始発の165系最後の定期列車である328Mは5:25発。まだ3時間以上の待ち時間がある。近所のコンビニに走る同輩も多かったようだが私は水も食料も持ち込んでいたのでその必要もなく、とりあえず体を休めるべく睡眠体制に入った。…が、思えば生まれてはじめての駅ネ、これがなかなか寝付けない。しかも、この日は割と気温が低く、寒風がぴゅーぴゅー吹き込んでくる。結局、ほとんど一睡も出来ないまま4:50頃、改札が始まってしまうまでまんじりとしない夜を過ごしたのであった。
静かにラストランを待つ165系
これが5月とか6月とか、もっと日の長い季節だったらこの時間でも十分に明るいのだが如何せんまだ3月、朝の5時はまっくらである。撮れる写真にもおのずと限界があり、結局あまりいいものが撮れないまま結局ラストラン、黄泉路の328Mが定時5:25に紀伊田辺を出発した。
静かにその時を待つ、出発直前
和歌山への道中、私は眠り惚けていた。別に起きていようなんて全然思っていなかったし、例え思っていてもあの状況下ではとてもじゃないが無理であっただろう。今まで、この165系の中で幾度となく居眠りもしたし、夜行としても何度も利用した。しかし、そういったことももう一部の臨時列車でしか出来ないのかと思うと、そんな居眠りですら何かとても貴重なものと思えてしまうのが不思議である。土曜日ということもあり、車内は学生に占拠されることもなく、始発でもあるので元々そんなに乗客もいない。居眠りの環境としてはこれ以上ない環境である。ぐっすりと居眠りをしている間に気がついたら列車は和歌山へと到着していた。 到着ホームの反対側にはバトンを渡す117系が停車していて、ちょうど新旧交代の並びとなっていたわけだが、見るにつけ凄い塗装ではある。そんな並びを横目に見つつ、最後の別れを惜しんでおいた。
奇しくも並んだ、221系・165系・221系
仕事さえなければゆっくりしていきたかったのだが恐ろしいことにそのまま帰ってすぐに仕事に逝かなければならない身、和歌山でも最低限の撮影で切り上げてすごすごと帰路へとついた。こうして、今回のどたばた劇は幕を下ろしたのである。
最後の勤めを終えたその姿
中央西線の山の中を走る165系が好きだった。紀勢本線の海岸線ともマッチしていた。富士山をバックに走る急行「東海」は実に風格があった。ずらっとクロスシートのみが並んだ車内は、やはりどこか「急行型」という特別な雰囲気というものを漂わせていた。まだ一部臨時列車では走るだろうし、定期列車でも「ムーンライトえちご」仕業は残っている。それでもやはり原形車の定期仕業離脱というのはやはり一つの大きな区切りであり、実質的な引退といっても差し支えあるまい。「古きよき時代」の名優がまた一人、静かに舞台から降りた、そんな感じである。今まで色々な思い出をありがとう、そしてお疲れ様でした。
そしてまた伝説へ…
2002年5月16日 実に2ヶ月もたってしまった23時
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